あの日、はエースにキスをした。
ただ、強く唇を押しつけるだけの乱暴なキス。
だけどその状況は一変した。
『ん…ふぁっ…っ!』
息を吸う瞬間に彼の舌が侵入してきたのだ。
なぜ隊長はこんなにキスがうまいの…?
なんて呑気に考えていたけど、キスに応えているうちにそんな余裕は消え去り、その後は流れに身を任せてしまった。
まるで自分ががスパイではなく、ただの女の子になったような感覚。
しかし、キスが終わるとの頭はすぐに切り替わった。
これでエース隊長は私のもの。
情報が筒抜けになるのも時間の問題。
そこまでやり遂げて、はすぐに寝てしまった。
それから数日。
『あの日は何もなく、隊長が介抱してくれただけ。』
はそう肝に銘じて、お酒のせいで記憶がなかったふりを続けていた。
そんな自分にエースの方から告白してきてくれると思っていたからだ。
しかし。
「なんで何もしてこないのー???」
は一人、夕暮れ時の甲板の上でのんびりと海を眺めながらため息をついた。
あんなキスをしておいて…なんて何を考えているんだ、私は。
は気付かぬうちに唇を触っていた指を外し、首を大きく左右に振った。
あの日から、私少しおかしい。
は頭の中を整理すべく、目を閉じた。
キスの日の翌日がTに報告する日だった。
はTに『これでもう大丈夫、白ひげの情報はまかせて。明日には彼、私に告白してくるはずよ』なんて強気なことを言ってしまったばっかりに、1週間以上が経過したいま、穏やかな心ではいられなくなっているのが現状だ。
「もう一度…Tに報告するか…」
状況が芳しくない場合、別の対策も練らなくてはならない。
Tに指示を仰ごうと、は人目のつかない倉庫部屋の辺りまで足取りを速めた。
なかなかない自分の落度に、注意力散漫になっていることも気づかずに。
「……?」
まさにいま、に話しかけようと近寄って来たエース。
少し遠いとはいえ、が彼に気付かない日はなかった。
それはが彼の事を好き、とみんなに気付いてもらうための巧作でもあった。
「どうしたんだ…?あっちには倉庫しかねェのに」
エースは彼女の向かう方へと足を進めた。
「あれ?確かは、こっちの方に…」
いた、との姿を確認したエースは何故か物陰に隠れてしまった。
息の音さえも漏らさない、と言うように自分の手で口を覆う。
が見たこともないでんでん虫を使っている状況に、エースが反射的にとってしまった行動だった。
「T?」
『どうした?月に1回の連絡でいいはずだぞ』
「そうなんだけど…」
『もしや、告白されてないのか?』
「!?…さすがね。勘がよろしいこと」
『何年君を見ていたと思って…いや、なんでもない』
「?…待って、どういうこと?」
『い、いや、君の実力は噂に聞いていたからね。君とペアを組んで大きな仕事を成し遂げてみたいと思っていたのだよ」
「…そう、それはありがとう」
『…とにかく話を戻すぞ』
「そうね、時間がない」
『君に落度はないか』
「…落度があるから連絡してきてるんじゃない」
『そうじゃない。気付かれてないかってことだ』
「…え?」
『スパイということが』
「まさか、それはないはず」
『じゃなかったら男は簡単、なんだろ?』
「…そう、そうね、簡単…」
『君の口癖だったじゃないか』
「…」
『気を張り詰めすぎるな、物事とは簡単に事が進むように出来てるんだ』
「ありがとう。私、最近気張ってたのかもしれない」
『頑張れ。俺たちは相手にとって空気のような存在になるんだ。それが一番のスパイさ』
「そうね、それじゃあまた」
は小型のでんでん虫を服の中にしまうと足早にその場を離れた。
エースは口を抑えたままぴくりとも動かずにいる。
が話している電話の内容だけじゃ何もわからなかった。
わかったことといえば、彼女に何かしらの落度があるということ。
最近いつにも増して気を張っているということ。
それだけ。
エースは頭の中で何と何を繋げれば答えに辿り着くのか考えたが、眉間に皺が寄るだけで何も思い浮かんではこなかった。
けれど彼の中の違和感が確信へと変わったとことだけは確かだった。
は人懐っこくて、優しくて、気も遣えるし、戦いのときも意外と頼りになる。
けれどどこか人と距離をとって、何かを隠しているように見えていたのだ。
正直、自分はに惹かれていた。
実際この船の中の紅一点(ナースは除いて)なだけあって、彼女は隠れてモテていた。
そんな彼女が自分に好意を持ってくれていることはわかっていた。
それに彼女のさりげない優しさや笑顔に、気持ちを止められないと思ったことは山ほどあった。
でもその陰が気になって、踏み込めなかったのだ。
1週間くらい前、それを爆発させてしまったがはお酒で記憶が飛んでいた。
でも、それが彼女の策略で、記憶があったと仮定して…。
その1週間が『最近気が張っている』に繋がったとしたら。
俺と彼女が親密になりきれないことが『落度』だとしたら。
エースは負のループを辿っているような気がして、頭を抱えてその場に座り込んだ。
そうよ、私はスパイじゃない。
普通の女の子なのよ。
山賊に島を焼かれて、父も目の前で亡くして、海に希望を架けて海賊なった女の子。
そんな女の子がエース隊長に恋して、頑張って、あとちょっとで彼と両想いになれる…よくある普通の恋物語なの。
は顔を歪ませて歩いていた。
いままでの過程を辿って、今回の落度がどこになるのか探していた。
「おい、、どうしたんだよい」
「へ?」
「そんな怖い顔してたらエースに嫌われちまうぞい」
「な、何いって…!!」
「まぁ、いいじゃないかよい。悩み事は話しちまった方がいいよい」
顔を上げるとマルコがいた。
マルコは心底心配しているような顔をしている。
何が心配、ってのこと以外にないだろう。
彼にはエースのことが気になっていると話したことがある。
それ以降彼はのよき相談相手になっていた。
時間を掛けて行うスパイは、このように周りも固めるのが得策なのだ。
「あれから、エースがよそよそしいねェ…」
「あの夜に何があったのか…全然覚えてなくて。怖くて最近は話しかけることもままならないの」
「、引いてだめなら押してみるのもいいかもしれないよい」
「え?」
「告白、待ってるだけじゃダメってことだよい」
まだ誰もいない食堂。
4番隊だけがざわつきながら忙しそうにキッチンの中を行ったり来たりしている。
それを隅っこのテーブルから眺めながら、サッチが持って来てくれたカクテルをごくりと飲んだ。
まだ夕方なので飲むのに少し躊躇したが、マルコが進めてくれたのだから飲むしかない。
口の中に広がったカシスの甘みが、私の思考をにぶらせるんじゃないか、って錯覚がした。
「俺から見てると、むずがゆくなるんだよい」
「むずがゆい?」
「あぁ、どっちもお互いの事が好きなのになんで言わねェんだ、ってね」
マルコはお酒を一気に飲むとそう言い残して去っていった。
待っているだけじゃ、ダメ。
「私からやらなきゃ…」
の声はガチャガチャと食器同士がぶつかり合うような音に消えて行った。
なんで、自分は彼からの告白を待っていたのだろう。
何故、彼からの言葉を待っていたのだろう。
彼から情報を得るためには、自らアクションを起こすしかないじゃないか。
は大きく息を吐いた後、カクテルを一気に飲み込んで立ち上ると、駆け足でエースの部屋へ向かった。
「エース、隊長」
控えめに彼の部屋のドアをノックして、控えめに名前を呼んだ。
すると中からいいぞー、と声がしたため、はドアをそぉっと押して中に入った。
「隊長、いま大丈夫ですか?」
「おう」
の頭の中は告白のことでいっぱいだった。
はいままでも何回だって色んな人に告白してきたし、キスだってしてきた。
その時、こんなに緊張したっけ?と思うほど汗をかいている。
「あ、の」
喉が渇いてうまくしゃべれない。
そんなこと、いままでなかったのに。
「隊長、」
もう一気に言ってしまわないと。
「エース隊長、好きです」
周りが静かになったような気がした。
自分で言った好きという言葉が何回もリピートして頭に流れる。
告白って、こんなものだったっけ?と感じながら隊長の目をじっと見つめていた。
でも、今回の告白も自信はある。
もちろん、マルコ隊長のお墨付きということもあるが、ここまで良い雰囲気になった人を落とせなかったことがなかったためである。
それなのに、なぜ自分は不安でいっぱいなのだろうか。
変な胸騒ぎがした。
分からないけど、彼の返事を聞きたくない、そんな気持ちまで浮かんだ。
「…ごめん」
本当に時が止まったんだと思う。
さっきも静かだったけど、今回は耳鳴りがした時のような感覚だった。
どうしてうまくいかなかった?なんて冷静に考える程の余裕さえ持ち合わせていなかった。
「!!」
知らぬ間に走り出していた。
人気のない女子部屋まで一気に走った。
部屋についてから気づいた。
02.ネズミの涙を見たか
(なんで私、泣いてるの…?)